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AR: 人の正義、正当化と反応

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アロムさん、いつもお世話になっておりますm(_ _)m
今回はブログにて質問させて頂ける機会ということで、このところ様々に噴出する違う考え、デマやウソなどから人の正義、正当性に対する反応についてちょっと考えてみました。

脳神経の専門家でもあるアロムさんに、一度伺ってみたかった内容でもあります。ぜひよろしくお願いいたします。

Q1. 人と話す時に、意見が違うことはままあります。私は出来るだけ違う意見や考えも聞く、聞けるように心がけていますが、時に「自分こそ正しい」と譲らない方もいますし、私の方こそ正当性がある、とどう考えても思う時もあります。

その「正しい、正しさ、正当性」というのは、客観的にみれば人それぞれの価値観に寄る非常にバイアスがあるものだと感じるのですが、人はその正しさ、これは正しい、絶対だ、という感覚をどのようにとらえて(反応)しているのでしょうか?脳がそうさせるのでしょうか?正しい、と思う案に周波数が合うということなのでしょうか?

A.  wwww日本人はディベートの練習をしたことがないから特にそんな感じの誤解やわだかまりが起きるのでしょうね。

まず、正しさより謙虚さを中心においてください。つまり話をするうちに「もしかしたら自分の考えは間違っているかも」という感じを受けたら素直に認めることです。これは大事なことで、日本のディベート訓練で一番欠けていることです。そう、意見が変わっていいのです。自分に素直に謙虚に相手を認め自分の間違いを認めてこそディベートなのです。

相手をねじ伏せようとすると、とかく自分のプライドだけで話をして人の話を聞かない。やがては平行線で議論が喧嘩になってしまう。しかし、日本のディベートの授業はそれをよしとしている。これでは海外では通用しません。意見を変えない人間は友達ならいざ知らずレベルが高いパーティーには呼ばれなくなります。上流階級のパーティーはパーティー後のディベートが一番楽しいことです。それだってこの人とディベートをすると楽しいし勉強になると思えば呼ばれます。

私の知る限りではそんな裏のパーティーに日本人が同席した記憶がない。いてもただ聞いているだけで二度と呼ばれることはないです。これは英会話の問題ではなく本当に自分の意見を言えるか否かの問題で、そこに文法は入らない。

坂本龍馬がなぜ魅力的ってそんな自分の意見も言えるし人のすごさを認めるところでしょう。だからペリーも気に入ったし信頼できたのです。もちろん間違いを認められなければ、なぜそう思うのか話す必要もあります。たどたどしい会話でいいのです。そこに学びがあれば誰だって耳を傾けます。それが正当性です

 

Q2. 私は『正しい事』というのは(上にも書きましたが)個人それぞれの解釈があるので全ての人に当てはまる絶対的正義、のようなものは存在しない、正義だけでなく絶対的なもの、はない、と言った方がいいかもしれない、と考えています。

ですが、人間は宗教もそうですが、どうも「絶対的に正しいもの」や正当性にこだわる人が非常に多いです。これはなぜなのでしょうか?

その都度、その社会限定で通用するだけよ~、くらいの余裕があってもよいのに、「普遍的、絶対的」を求める、自分の信じる正当性が万国共通、のような言い方をするのはなぜなのか、気になります。

A. そこも日本人独特ですよね。正しいことは個人個人で違うなら違いを理解しあうことが先決です。

ところがです。日本では宗教戦争がない。なぜか?それは日本では災害が多くその避難場所が寺や神社だったので宗派を超えて同居しないといけないので情報交換が意外に多かった。それが日本の仏教の特徴だと思っています。線が引けない。神仏習合って海外では「何、それ?(◎_◎;)」って思いますwwwwそれでも災害が集合させたのでしょう。

話を戻すと、アンドロメダでは意見をごり押しする人には「君が万人の尺度ではない」といいます。知っている尺度が少ないからごり押しをするのです。これは明らかに勉強不足。そんな人間と話をしても学びにならないのでしない方がいい。満足している限り何も学ぼうとはしないでしょう。もっと価値ある人間と付き合うことをお勧めします。

 

Q3. 自分が正しいと思っていた事で、後に「うわー大間違いだった!!(爆)」というのは、特に若い頃には頻繁にあり、穴を掘ったらもう抜け出せない深みに・・・という恥ずかしさです、てへぺろ(←反省の色なしww)。

ただその当時はそれが絶対正しい!と思い込んでいて、それ以外の意見が客観的にどれだけ素晴らしくても、何というか「ケチつけられた」と、まるで悪口を言われた時のように、気持ちに傷をつけられたような感覚になったことを覚えています。なので全力で自分を正当化して論戦になるわけです(苦笑)。

その時の自分の意見は後から見ても確実に間違っているのに、それを指摘された当時の私は自分の人格までも傷つけられたような感じになっていましたが、どうしてそうなってしまうのでしょう?

どうして人は一度自分が正しいと思い込んだら、それが間違いだとしても後には引けない、とか信じ込み、周りの意見(客観的に見て良い意見でも)に一々傷ついて逆恨み、みたいなことになってしまうのでしょうか?

引いたらいいじゃん、ごめーん、てへぺろ、にどうしてなれないのでしょうか・・・。

A. これは日本の教育の問題です。意見を変えていい、間違っているか確認するためにディベートはある。という授業をしてこなかったからです。あなたのせいではない。まあ、指導する教師もその器ではないのでもっと仕方がないですね。自分をそんなに責めないでください

 

Q4. 交渉の場において、それぞれの交渉人はその人が所属する組織、団体、国の意見を主張します。時にはそれが交渉人個人の考える最善、正義と違う場合もあると思いますが、組織を代表する立場として、組織にとって正しい、と決められたことが通るように交渉するのがプロの仕事だと思います(間違っていたら訂正お願いします)。

個人の考えと著しく違う場合、例えばその交渉人の考える正義とかけ離れている、しかし組織の代表として組織に利益をもたらすために交渉の場に出なければならない・・・そのような場合の交渉人は自己破壊のような事が起こるのでしょうか?

それとも個人の正義が実は間違っていて、本当は組織の意見が正当性があったりする、というような事もあるかも、と思いますので、交渉人個人の感覚はどのように対応、というか順応されているのだろうか、と興味があります。

A. それでは国同士のけんかになってしまいます。国同士の交渉とは、いかに自分の国を有利に立てるようにするかです。ということは妥協するところもはっきり打ち出さなければなりません。絶対に譲れないこともあるけど譲ってもいいこともあるはずなのです。

また、相手のここを譲らせたらいかにこちらも譲ってあげるという演技をするかも必要です。それがどんなに価値がなくてもいかに価値あることを譲ったか悔しがる演技も必要なのです。そうやって最後に一つ二つと限られた互いに譲れない議題が焦点なのですが、そこをいかに見せずにするかwwww相手に悟られないようにするのです。日本の役人はそこがお金で表現するので、手に取るように手玉に乗せられるwwww面白いように引き出せますwwwww楽しかった。本当ATMだなって実感したことがいくつもあります。あ、失礼・・・

というわけで個人の考えとかそんなことは、この際後ろに放り投げて玄関の外に打ち捨てながら交渉を進めます。ゲームですからそこに自己破壊はありません。あ、でもあまりに高い金額を提示されたときはさすがに後ろめたい気になったことは確かです。日本っていい国だあ( ^ω^)・・・

 

質問は以上です。
正しい事、と言えば「誰でも分かっているでしょ!」と思ってきたような最低限?のモラルがここへきてどんどんひっくり返され、マナーもルールもあってなきがごとし、のようなカオスになっているのは、日本だけでなく地球の至る所で表出しています。それがアセンションの反応だ、と言われてしまえばそうなのか、と半分納得しつつも、その膿のトホホっぷりに「正しいことってなんだろう」「人はどうして正義にこだわるのか」と改めて考えざるを得ませんでした。

個人的にはここ数年バカに大を3つくらい足したような正直路線、というかウソが壊滅的にヘタwwなので、風通し良く?生きているつもりですが、地球もどんどん風穴を開けている段階なのかしら、と心配しつつ状況を見ているところです。

余談ですが、交渉人には相手に与える印象、雰囲気というのが非常に大切だな、とリアルアロムさんをお見かけして思いましたwwパッと見ただけで、なんというか「この人を言いくるめてちょろまかすことはできん!!」wwwという雰囲気を醸し出せると、かなり有利に進められるよなぁ、とあのキレキレっぷりを感じて思ったのでした、ずずー(と茶を啜るww)。私にはムリッwww

今回も、質問の良い機会を頂きまして、感謝しております♫

A. 血税というのは誰が言っているのでしょうね。それこそ自己破壊が始まっているのでしょうが、ぼくちゃんは普通のアメリカ人のおじさんだから決して裏はなく正直に(強調)生きています。だから自己破壊はないですよ。(´艸`*)

一緒にバカ正直の道をまい進しましょう

 

質問をありがとうございました

 

コメント

  1. Shire より:

    アロムさん、丁寧にご回答頂きありがとうございました!やはり教育がポイントですかね~。

    「価値のある人間と付き合う」で思い出しましたが、先日職場の学生と話していて、「こりゃもう絶対敵わんわ」と心底感じました。受講しているクラスの最終プレゼンを教授陣達の前で行うそうですが、それだけでなく一般学生もツッコミを自由に入れていいらしく、先生よりもクラスメートからの質問の方が怖いwと爽やかに話していました。物理と化学のダブル専攻で、あどけない顔をした20歳そこそこの学生が、キレッキレのプレゼン内容を語ってくれましたが、いや~~~~~リアルでシャンバラの学生と話しているような錯覚がwww

    どのようなツッコミにもキッチリ対応、言葉の使い方も丁寧で、分からない事も決して誤魔化さない、自分の感覚を正直にストレートに話している学生を見ていると、非常に眩しく、また心洗われるような清々しさを感じました。

    日本の学生さん達も、素晴らしい方々もいらっしゃると思いますが、もっともっと初期の段階から、いや、自分含め親世代からまず教育し直さなきゃダメだわい、としみじみ思いました。

    そういえば、カツラ大統領に会いに来た某首相ですが、今回もかーなり大枚をはたいてるそうですね・・・国内ニュースに上がってこないのが怖すぎる((゚Д゚;)) 

    ちなみに、アロムさんの言う「普通のアメリカ人」ってナニ?誰の話なんでしょう~(。´・ω・)?

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