質問をお願いします。
私は選挙に行って投票することが大事だと思っていますが、今回の質問では、誰もが全員選挙に行かなくてもいいのではないかという視点から選挙について考え、それに対してのシャンバラの意見をお伺いしたいと思います。
「投票に行こう」と掲げるグループは大抵資金力があり、広告にも沢山の資金を使うことができますよね。大抵の人は選挙について調べずに、たまたま遭遇した情報を頼りに投票に行きますから、資金力がある政党が有利だと考えています。これは投票数が少なければ必ずしも正しいとは言えませんが、投票数が多ければ、有利な側に確実に票が行きますので、投票数が多ければ多いほど有利な側、つまり資金力がある政党が勝つ可能性が高まると思います。ですから投票数が高くなればなるほど資金力のある社会的強者の多数派に政治は飲み込まれ、少数派の意見は反映されなくなるのではないかと考えます。このような理由から、全ての人が選挙に行くと、かえって政治が悪くなるのではないかという疑問が生じましたので、選挙には全ての人が行く必要もない、という観点に立つことも出来るのではないでしょうか。
また、全ての人に政治に対して考えることを強要するのもそれはそれでどうかと思うのです。なぜなら、「ある特定の事柄はみんな考えた方がよい」ということが何かに対して成立すると、ほかのものに対してもすべて例外なく成立しなければならないからです。例えば音楽家の人たちは、世界のあらゆる人に対して音楽に対して精通することを望んでますし、数学者や法学者、などの人たちはその分野のことに対してあらゆる世界の人たちが精通することを望んでいると思います。以上より政治にだけ「全ての人が考えなければならない」という意見が適用されることは無いのではないでしょうか。このような観点からも大人数が選挙に参加しなければならないということはないという観点にも立てると思います。
(もちろん私は選挙には行きますが)
ここからは自分の意見ですが、選挙は誰でも無料で受けられるテスト(もちろん年齢は関係ありません)のようなものを用意して免許制度にするのが良いと思っています。もちろん教材も受けたい人には無料配布して、うまく本を作れば、政治に対して興味があり、かつ知識がある人が増えますから、これが良いのかなと思っています。
以上のことを踏まえて
1 社会の人全員が選挙に参加することの是非①
2 誰でも参加できる免許制度の選挙の是非②
について、シャンバラの意見をお聞かせください。よろしくお願いします。
A. シャンバラではかつて政治家という存在がありましたが廃止されました。理由は全く同じ理由です。全員参加の選挙をしても気が付いたらDSのような存在に支配されて本来の三権分立が崩壊したからです。これをひっくり返すにはたくさんの犠牲者が出ましたが全員で変えたのです。
例えば陪審制度。裁判官だけで決めたことを一般人も参加したのはなぜでしょう?日本ではなんとなく制度が変化したように思ったでしょうがイタリアなどはギャングが裁判官を買収したり正義を唱える裁判官が次々殺されたりしたからです。そのために裁判官ですら怖くてギャングを次々に無罪にさせてしまった歴史があります。これって今の日本の政治家に当てはまるでしょう?
ではどうしたか。一般人複数人が一丸となって裁く立場にしたのです。命をはって。犠牲者を出しても家族が殺されてもギャングに立ち向かったのです。
ここで言いたいのは頭がいいから正義を貫けるのではない。身の危険が迫れば裁判官でも不正に屈するのです。学歴が低くても正義を唱えることはできるということです
シャンバラでもかつてある一部の人間が支配して政治というより国費を思い通りにしていた時代がありました。政治家なんていらない。をスローガンに一般人が行ったのがアンケート党。政治家の活動資金でアンケートをした内容を議会に提出しました。一人でも人間の政治家を落とす。AIではないです。あくまでもアンケートを常に行ってそこで得られた結果を党の指針にしました。今の地球で言うネットで、議会の案件を公表して一つ一つ。
そしてわかったことは、その膨大な量にどうしたらいいのか頭を悩ませました。そんな驚いた一方で議会の内容はすべて一部の党に握られて、他の党には情報すべて与えられていないことわかりました。議会なんてなかったのです。
アンケート党はその膨大な案件一つ一つを国民全員に理解させるのは無理だと思いました。つまりどんなに優秀でもすべては無理なのです。だとしたら一部の優秀な人間にすべてを託すべきなのか?ある程度政治家を引きずりおろした時にわかったのです。それは無理だと。
立法と予算は別物です。それが同じ人間がかかわるということの限界と矛盾がわかったのです。立法は法曹がするべきだし、予算は税理士などその専門がするべきです。
日本の場合は官僚という知識層が、どんなに政治家が変わっても変化なく情報を握ってしています。表に出ることなく誰一人官僚の名前を知ることなく議会は運営されます。当然国費の権限を握れば思いのままです。そしてその裁きも、人事権を持った今誰も彼らを裁く者はいません。それと同じ経験をしています。
ではどうするか?そこで提案されたのが評議員を各専門家が議論することになりました。
わかるでしょうか?かつてロシア皇帝エカチェリーナがフランス革命を知って「パン屋が議会の何を理解できるの?パン屋はパンを作ればいいのよ」って発言が残っています。しかし、陪審員制度を取り入れた時も同じことが言われました。法律の素人が何ができるんだ?と。でもできたんです。学歴がなくても知りたいと思えば一生懸命に勉強してギャングの言い訳をつぶすことができたのです。
皆さんも医学は素人でもいったんその病気になれば、医者みたいに広範囲の知識はなくとも、その病気に関しては医者以上に専門知識を得ることができるではないですか?まさしく必要は知恵の母なのです。
さて、ここで①の回答です。全員が全部の選挙に出ることは至難の業です。高学歴社会の日本ですらそうなのですから。でも現在日本人は一般人でももし資料があれば読めるし分析もできます。そのための教育システムです。支配層はできるだけ貧困という名目でその教育システムをつぶそうとしているみたいですが。
本来なら国家の指針が理解できるようにやさしく解説するのが政治家で、その政治家の言わんとしていることをもっと優しく解説するのがマスメディアなのですが、ご存知の通り世界中その役割は崩壊しています。わからないほど関心は薄れる。だからなにがなんだかさっぱりわからんことを平気でするのです。
選挙も同じで同じ人間が全部の選挙に参加することは無理なのです。もしあなたのPCに日本の今の現状を表した資料が来ても、読む気にならないくらいの量を読んで理解してアンケートに答えることはできません。関心あることは別でしょうが。
そこなのです。1億いたら全員が同じ膨大な資料を分析するのではなくそれぞれの専門知識のある省庁の現状把握をするなら理解できます。官僚はそうしてきているはずです。それを選挙でも生かせばいい。つまりは共存共栄とは全員がすべてを理解するのではなく自分の知っている専門分野で予算と立法を担うのです。全員参加の限界わかっていただけたでしょうか?
② 選挙自体を免許制度にする以前に立候補する人間の免許制度が先でしょう?それは支配層のいい題材になりますよ。家柄で選ぶ。元スポーツ選手を選ぶ。認知度が高いから選ぶ。学歴で選ぶ。彼らが何を知っているのか知りもしないで何が選挙ですか?
法律も経理も知識がない人間を選べば知っている人間の言いなりなのはわかるでしょう?「よきにはからえ」だけでいい。
これからは選挙人も専門を生かすことです。だから教育は必要だし天職、天命を知っていることは大事なのです。オールマイティにできる人間では崩壊する。有事に何もできない。そして何より国民の声など聴かない。
シャンバラの見解はもっと言いたいことがありますがざっくりそんな感じです。がんばれ国民。
質問をありがとうございました
コメント
解答ありがとうございました。何回も読み返して考えてみたいと思います。
学歴がなくても正義は貫けるとはまさにその通りだと思います。